「察して欲しい」気持ち
本日ブログ記事を読んでいて共感。
察して欲しいという気持ち
この「察して欲しい」という気持ち。ママ友パパ友やら、同僚やら、親族やら色んなところで問題を発生させている気がする。
確かに、一緒にいて気を利かせて、言うまでもなく、こちらの思いを汲んで、先回りして何かを行動してくれるというのはとても自分に対する思いやりや、好意や、誠実さを感じるので、嬉しいのは多分間違いはない。
ただ、こういうのって書いているだけでもレベルが高いというか要求事項としてはかなり難しいことだと思うし、そもそも自分も含めて結構な人は自分自身が何を望んでいるのかも、そんなにハッキリとは分からない中で、相手にそれを適切に推察してもらって、先取りして行動するよう要求するというのは極めて高いレベルの要求であると感じる。
どうして「察して欲しく」なるのか
でも、そうは言いながら、実際に自分の周りでも、あるいはブログ記事の中にも、あるいは本でも、「察してくれない」ことへの怒り、失望、ガッカリなどは目にすることがある。
どうして、そんなに高いレベルの行動、コミュニケーションなしの自発的先取りを欲してしまうのだろうか。
- 「察する」のが美徳というメディア、文化、周囲の価値観に触れて影響されるから
というのが何となく一番思い当たる。
でも、これってどうなんだろうか。逆に言えばどうして「察すること」が良くて、「言葉をともなったコミュニケーション」でやり取りをすることは嫌、レベルが低い、自分のことを真摯に捉えてくれていない、疲れる、になるのだろうか。
オンラインゲームと「察する」
確かに日本の文化として、「察する」ことを重視するというのはあるとは思う。
以前に、オンラインゲームのFF11をやっていた際に、あのゲームは世界中のプレーヤーが同じサーバで遊んでおり、言語もTabキーで自動的に翻訳される言葉が豊富に用意されており世界中の人と遊べるようになっていた。
その中で、驚いたのは海外のプレーヤーは全くこちら側の状況を「察さず」にとにかくストレートに主張/要求/コミュニケーションをしてくるということ。
「お金がないからお金をくれ」とか「自分はこのクエストが終わっていないので(=クリアには2時間以上はかかって助ける人にほとんどメリットらしいメリットもないもの)手伝って」とか、はっきりと物を言う。
これが日本人になると、お金くれなんてハッキリ言う人は見たことがないし、クエストも友達のを助ける代わりに、今度は助けて、と。(それもハッキリ言えずというのも多々ありトラブルの元になったりもするが。)
どちらが一概に良いとか悪いとか言う訳ではないが、まぁ、概して「ハッキリと言葉で物事を伝える」のが多い/少ない、慣れている/慣れていない、という点は確かにあると思う。
そうは言っても「無茶をいいなさんな」「お互い様」でしょ
そう。なので気持ちや望みたくなるという欲求は理解できない訳ではないが、それでもそうは言っても、お互いにまともな大人同士であれば、「無茶」な要求でもあるというのは理解できるはず。
そもそも、「自分が相手に同じことを出来ているのか(=自分目線でのサービス提供、気づいていることではなく、相手が実は欲していることを。)」と言った時に、出来ているというケースは少ないと思われる。
であれば、「無茶を言いなさんな!お互いにそんなこと出来ないでしょ!」というのが適切な態度であるように、少なくとも自分には感じられる。
どうなんですかね?この「察する」「察して欲しい」という気持ち。
追伸:
というような話を奥さんに話をしていたら。
- 察してというのが不毛だというのは大賛成
- ただ、トイレットペーパーの補充を「私が独占的に」やっている件、お前はその状況をちゃんと見てるのか/見えているのかは物凄くあるぞ!!
と言われてしまい、ぐぅの音も出ず。確かに家事半分と結婚前に言いながらも、実際に「半分」は到底出来ていないこと、そもそもサービス範囲外と勝手にスコープ外にしていることは反省・・・